女性医師たちのあゆみ ~自伝的エッセイ~

長野 禮子

―よき出会いこそ宝物―

「人は出会うべきときに出会うべき人に出会う 
遅すぎもせず早すぎもせず」

出典は忘れたが私の心に深く刻み込まれた言葉であり、人生のゴールが見えてきた今、しみじみと多くの人々から賜った恩の大きさ、有難さに感動する日々である。

医師免許を取得したのは昭和26年で、私が22歳の秋、母校関西医大第一内科に入局する。当時男性は教授一人、助教授、講師、助手すべて女性で独身という教室。診察、回診を終え午後9時頃からこの先生方の研究生活がはじまるので下の私達も夜遅くまでいなければならない。週一度のアルバイトは許されたが大学は当然無給、皆親のすねかじりだった。

そのうち、私は結婚の為、24歳で教室を辞することとなる。子供になかなか恵まれず近所の保健所からの依頼で徒歩10分の府保健所母子健康相談に勤務することとなった。当時行政機関であるのに診察 投薬 検査など診療業務を実施していた。又週一回関連病院での勉強が認められていて、府立病院小児科に通った。

2人の男児に恵まれ彼等が大きくなるにつれ幼稚園、小学校と母親としての時間的制約が増える。私の両親が渾身の愛情と努力で育児をしてくれたのだが、それでも常に家事手伝いは一人必要で時には若い手伝いと子守の老婆の二人がいて、私の給与は彼女達の支払いで消えてしまうのも勤務退職の一因である。

新しい臨床を学ぶべく故郷の関西医大へ戻り私より若い後輩先生方から指導を受けた。この時の母校の優しさ、暖かさは忘れら れない。

34歳で開業し、それから35年間の疾風怒濤の生活が始まる。救急体制の整備されてない時代で救急車がサイレンをならして搬送してくるのも、夜起こされるのも度々でまさに24時間体制の生活。二人の子も医師となり大学や市中病院での臨床経験も積み、学位を得て家庭も持ったので69歳になっていた私は体調の衰えもあり経営者を退き自院の勤務医師となった。

突然の引退で家族はうつにならないか、認知症になるのでは、と大変心配したそうであるが幸いというべきか大阪府女医会会員として理事の末席にいて女医会報にエッセイを連載中。この仕事が結構忙しく暇をかこつことはなかった。

平成14年からは会長が級友であるという理由で大阪府女医会に何の貢献も出来ない私が副会長として広報・企画・厚生を担当させていただている。医師となってもっとも有難くよかったことは、よき友人に恵まれ、その立派な識見、豊かな人格、驚くべき聡明さに出会えたことである。亡き両親の墓前に、いつも医師にしていただいて嬉しいのはよきご縁を得て、多くの人々に出会ったことと報告している。

出会うべきときにであった恩師、先輩、友人、家族の方々に心からなる感謝の言葉を捧げたい。

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